nim3mo(煮メモ)

煮水(nim1z)のブログ

今更「中二病でも恋がしたい!」を観た。(仮)

(放送)当時になぜか触れなかった作品の1つ、「中二病でも恋がしたい!」シリーズを最近になって観ました。

 

いろいろと心を揺さぶられたので、初めて感想を書いてみました。

まだまだ触れていない作品が非常に多い(経験がない)うえ、2021年現在になって「初めて」観たので、かなり偏った(未熟な)感想です。今更騒いでいます。申し訳ございません。

今まで感想を書き出したことはめったにありませんでしたが、受けた衝撃が大きすぎて、色々抑えきれずに過剰反応してしまいました。温かい目で見守っていただけると助かります。

本編を観た後に読むことを強く推奨します。

文章をお読みになることで発生するあらゆる損害について、一切責任を負いません。

 

 

 

 

 

 

 

 

入ってくる情報に対して大きすぎる想像力と感情に振り回される感覚を、久しく忘れていたことに気づかされた。
中二病に救われた少女、小鳥遊六花と、その源流だった富樫勇太を中心とした、おもしろくて切ない物語。


最初のうちは(知人から聞いたように)ド迫力のバトルシーン付き日常系コミカル路線で、振り回される感じが続くのかなと思ってしまっていた(実際アニメ1期の中盤まではよくありそうな文法、文脈かなと思った)。
とにかく濃いキャラクターに振り回される掛け合いが非常に面白かった。
しかし思ったより展開ペースは早く、六花の切なくも儚い背景が明かされていくにつれてこの作品から逃れられなくなった。
舞台・モデル地に身近な場所が多く、彼らの存在が自然に感じられたのも大きいと思う。

以前、本作品を観る前に石山駅周辺を訪れた際の写真が、自分のミスで手元に残っていなかった。もう一度行けということだろう。
自分はそこまでたくさんのお話(作品)に触れていない、人生の経験も少ない(トータルの体験が非常に少ない)うえ、なんだかんだ自分の想像や意思を出力せず押し殺していた心当たりがあったからか、良い意味で久々に心を揺さぶられた気がする。

 

現実は直視するには重過ぎる。
ただでさえ人生で最もアイデンティティが揺らぐ時期に、意志が強くて自由奔放…とは行かない人間が支えを失ってしまうと本当に厳しい状態になることは言うまでもない。

中二病は信仰ではなく、残った幼児性(純粋さ)と増えてきた知識、処理能力を元に想像の上につくる自由で自意識過剰な世界。
いろいろ揺らぐ時期に頭のリソースを全振りできる、ちょうどいい感じの存在である。恥ずかしいものだが本人は身をもって体験しているのである。(残念ながらそういった体験が直接役に立つことはあまり無いらしいが…。)

最近、誰もがたくさんの情報(事実)をあっさり得られるようになって、どんどん大人しく(悪く言えば冷たく)なっている気がする。
しかし今後、人間にしかできないこと(創作、設計など…)を行うようになった頃には、先入観や事実のみに偏った冷たい意識は邪魔になっていくと思っている。
(命の安全は第一として)純粋な気持ちを忘れず、好奇心のままに手探りでけしからんことを考えて、試して、体験することは案外大切なのかもしれない。
しかしさすがに命綱なしロープ一本でベランダから降りることは危険だと思った()

作中でも触れられているが、六花の「それ」は人生の一時期の支えどころではなく、もはや彼女の感性、アイデンティティであり失いたくないコミュニケーション手段なのだろう。
偶然勇太に出会うことで見つけた「それ」を、いろいろありながらも自分からは捨てようとしない、六花なりのひたむきさ。
最終的にはどうにかして六花の思いを実現しようとする勇太の姿勢。
感動した。

(十花さんの圧力…誰であっても、最初からどうすべきかわかっていたとしても一旦は保身に走らざるを得ない…)


私は最近になって疑似的な体験も想像も、全くの虚構、フィクション、噓八百にはならないのかもしれない、と思うようになった。
この作品(アニメ版)が最も伝えたかったメッセージは、映画2作目の最後のシーンでようやく触れられたはずだ。

 

しかし、六花の学校での普段の様子が(話せる人が少ないことに触れながらも)あまり描写されないまま話が進んで何人かと仲良くなっていた点は少し気になった。アニメ1期については、劇場版1作目「小鳥遊六花・改」に限りなく近い、”邂逅の歴史”だったのかもしれない。

全体を通して概ね”振り回されっぱなし”だったので、もう少しゆったりと彼女の成長を描いて欲しかったと思った。

アニメ2期から劇場版2作目までの間や、その後のお話がほんの少し気になる。(2021年12月時点、原作小説の新品の入手が難しい)

なにより、彼らの共通認識である拡張世界のお話を、一度で良いので観てみたい。
しかし劇場版2作目で本作(アニメ版)の目的を果たし、物語に一段落ついている時点で、一消費者の妄言に過ぎない。
それこそ、作品に触れた側が自由に想像する部分(余白)なのかもしれない。

彼らは心の中で生き続ける。
ところで「改」の夢オチ部分回収はどこ

小鳥遊六花かわいい(語彙力


追記
中学生時代の科学部で様々な体験をしたことを思い出した。
目の前で火薬を燃やしたり、植物を育てたり、とにかくいろんな体験をしていた記憶がある。事実を知っているだけではなく体験することで、この世界に対する解像度、分解能がどんどん上がって、連想的に視野が広がっていく感覚は忘れてはいけないものだろう。
あらゆる体験は空想でも現実でも、どちらでも常に大切にしていきたい。

この時代、比較的新しい過去の作品に触れていない人は自分以外にもまだまだ居る。また、触れた時期が早すぎて理解が追い付かなかった人もいるかもしれない。
時間は有限である。新たなコンテンツを矢継ぎ早に世の中に出していくことは十分理解できる。しかし既存作品の体験を最大化するような施策も(公式・有志問わず)できないのかな、と思ってしまった。


もしこの作品を放送当時に観ていたとしても、当時の自分では十分に理解することができないような、そんな気がした。